飛 山 城 の 歴 史

  飛山城は、芳賀高俊により、永仁年間(1293〜98)に築かれたと伝えられています。 ここでは、飛山城の歴史を簡単に紹介します。

 

1 有史以前のとびやま

  この地で最も古い人間の営みのあとは、今から約 3万年前、旧石器時代のケモノを獲るための落とし穴です。

 

2 古代のとびやま (平安時代)

  飛山城跡の発掘調査では、城が築かれる以前の平安時代の竪穴建物跡が発見されています。この建物跡からは、「烽家(とぶひや)」と墨書された須恵器坏が出土しています。「烽」とは「のろし」のことで、「家」は「施設」を意味します。この土器を使用していた場所が、「のろしを上げる施設」だったことを示す貴重な資料となりました。

  また、発見された平安時代の建物跡は12軒に上ります。 これらは、すべて西崖に近い場所に位置し、2つの時期に分けられます。1時期あたりの軒数は5〜6軒です。最初の時期の中心に位置するのが「烽家」墨書土器が出土した竪穴建物跡で、これは、掘立柱建物と竪穴住居が複合した形態の建物です。なお、『軍防令(ぐんぼうりょう)』には、「のろし」の材料を収納するための「舎」と呼ばれる建物を設置するように定められています。

 

3 宇都宮氏と芳賀氏の関係のはじまり (鎌倉時代)

  宇都宮氏と芳賀氏の関係が文献上で確認できるのは、1189(文治5)年の奥州阿津賀志山合戦の時です。『吾妻鏡』には、「宇都宮左衛門尉朝綱郎従紀権守・波(芳)賀次郎大夫(高親)已下7人」が戦功をあげ、源頼朝より旗2流を賜ったと書かれています。       
  この時期の芳賀氏の居城は、芳賀を初めて称した高澄が築いた御前城(真岡市田町)であったと考えられます。そして、永仁年間(1293〜98)、芳賀高俊は飛山城を築き、あわせて同慶寺を建立したと伝えられています。このころ宇都宮氏は貞綱の時代であり、貞綱は鎌倉幕府の要職である引付衆に名を連ねています。このことから、芳賀氏が宇都宮氏との関係をより密にするために、飛山城を築いたとも考えられます。

 

4 動乱の世を生き抜いた両氏の軌跡 (南北朝〜室町時代)

  1333(元弘3)年、宇都宮高綱(のちの公綱)は、鎌倉幕府の命を受けて四天王寺の合戦に参加し、楠木正成と戦います。その時の戦いを正成は「宇都宮氏は板東一の弓矢とりである。 紀(益子氏)清(芳賀氏)両党は、もとより戦場に臨んで命をすてることを何とも思わない」といって、決戦をさけたことが『太平記』に書かれています。この年の5月に鎌倉幕府は滅亡し、時代は建武の新政から南北朝動乱の時代となります。

  宇都宮氏綱を補佐する芳賀高名は、足利尊氏の北朝方に属します。このため飛山城は、南朝方の春日顕国軍に攻められ、1341(暦応4)年に落城してしまいます。その後まもなく、飛山城は芳賀氏の手に戻ったようです。
  宇都宮氏綱と芳賀高名は、1351(正平6)年、尊氏からの催促に応じて出兵し、戦功をあげました。その功績により、氏綱は上野・越後の守護に、芳賀高貞・高家は両国の守護代に任命されました。 

 

5 群雄の狭間でゆれ動く両氏 (戦国時代)

  1467(応仁元)年の応仁の乱以来、全国各地で戦が行われるようになります。

  1549(天文18)年、 喜連川の五月女坂の合戦において宇都宮尚綱が戦死すると、那須氏と手を結んだ芳賀高照は、宇都宮城を占拠します。 この時、芳賀氏の当主であった高定は、尚綱の遺児、伊勢寿丸(のちの広綱)を擁して真岡城にこもり、宇都宮城奪回をうかがいます。 1551(天文21)年、 壬生綱雄は北条氏康の意を受けて宇都宮城に入城します。 高定は、1555(弘治元)年、高照を真岡城で謀殺してしまいます。この2年後に古河公方足利義氏の命に応じた佐竹義昭は、広綱・高定を支援するため5000人を率いて飛山に在陣、綱雄を宇都宮城から退却させ、広綱は宇都宮城に復帰します。

  その後、上杉氏・北条氏・武田氏といった戦国武将にこの地域は攻められますが、佐竹氏・結城氏などと婚姻関係を結び、これらの勢力と対抗しました。

 

6 戦国争乱の終焉と両氏の滅亡 (安土・桃山時代)

  1585(天正13)年ころ、宇都宮氏の本拠が宇都宮城から多気城に移されます。 この時期の飛山城は、真岡城の番城的な位置づけとなっています。 その証拠として、1587(天正15)年、 芳賀高継は飛山城に関し、家臣の平石主膳亮に 「談合しつつ普請その他の任務にあたるように」 と指示を出しています。
  1590(天正18)年、豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされると、秀吉は「佐竹・宇都宮ならびに家来のものども、多賀谷・水谷」の諸氏に対し、「いらざる城は破却せよ」 との命令を出します。今までは宇都宮氏の滅亡とともに廃城と考えられていましたが、 発掘調査により、 飛山城は破却の対象となり、廃城になったと考えられます。